メジロ牧場 白の血脈 その4
メジロティターンは奇跡の申し子となった
天皇賞の二年後の1984年種牡馬入りします
その年北野豊吉は自分の子供たちを集め話をします。
アサマの子供で親子二代の天皇賞馬をだせたこと。
そしてこの上はティターンの仔で天皇賞を、
この願いがかなったらもう何も思い残すことはない。
どうか願いをかなえてほしい。
そう言い残すと、その翌日突然北野豊吉は静かに
天国へと旅立っていったのです。
後には新たな大命題をかかえた牧場と老妻ミヤと
子供たちがのこされたのです。
1984年2月のことでした。
それから3年後の1987年メジロ牧場に生まれた
当歳馬達は豊作で優れた素質を感じさせる馬が
多くうまれました。
中でも
輝光(父アンバーシャダイ母メジロチェイサー)は
一際目を引く好馬体で牧場の関心をあつめていました。
メジロの育成場に集まった幼駒たちは輝光を筆頭に、
輝峰、そして吉田牧場に預託されていた繁殖牝馬の仔
オーロラの62も加わり育成を迎えていましたが、
輝光はその中でも一番の期待馬に変わりはありませんでした。
メジロライアンと名付けられた輝光は密かに
クラッシック候補と評価され、
その評価に違わぬ勝ち方で皐月賞トライアルの
弥生賞を勝ちます。
しかし本番の皐月賞ダービーには勝ちきれず、
三冠レースの最後である秋の菊花賞に全てをかけます。
皐月賞を勝ったハクタイセイもダービーを逃げ切った
アイネスフウジンも故障でターフを去っています。
自身も父アンバーシャダイという血統や今までの
レース内容からむしろ長距離に向いていると思われること、
加えて前走の京都新聞杯では重馬場であったにも関わらず
コースレコードで勝っていることを鑑みれば、
ライアンの菊花賞制覇に死角は何もありませんでした。
大本命で迎えた菊花賞、
しかし距離延長歓迎と思われたライアンがスタミナ勝負の
勝負所でのびません。
思わぬ苦戦に喘ぐ中、ライアンの前を行く芦毛の馬が
ぐんぐん脚色を伸ばしていくのです。
その馬は京都新聞杯の前にライアンが調教で併せ馬を
頼まれた、条件戦に出走するはずの格下馬であったのです。
ですが調教でその馬はあろう事か素晴らしい脚色で
ライアンに先着したのでした。いつのまにか菊花賞とい
う同じ舞台に立ち追いすがるライアンを尻目に菊花賞の
ゴールを疾風のように駆け抜けたその芦毛馬、
同じメジロの冠名を持つメジロマックイーンこそ
あのオーロラの62だったのです。