疾風のレクイエム その1

   2015/01/05

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1937年(昭和12年)その年の東京優駿大競争(今の日本ダービー)を
従来のレコードを7秒も更新するタイムで勝った牝馬がいました。

その馬の名はヒサトモといいます。

ヒサトモの父は戦前を代表する名種牡馬のトウルヌソル
母はその時代としては珍しく下総御料牧場がアメリカから
輸入した基礎牝馬の一頭の星友であります。

そんな由緒正しい牧場の良血馬として生まれた彼女は
期待に違わぬ活躍をみせ、ダービーばかりでなく
帝室御賞典(今の天皇賞秋)をも制覇したのです。

中でも日本ダービーを制覇した牝馬は現在に至るまで
ヒサトモの他にはクリフジとウォッカのみであり
当時としても出色の名牝であったのです。

そんなヒサトモに悲劇が訪れるのは、繁殖に上がってからでした。

セフトとの間の第一子、第二子とも良い成績を残す事ができず
2度の不受胎をはさみステーツマンとの第三子のヒサトマン

第四子のブリューリボンがそれぞれ5勝を上げ良い兆しが
見えてきた頃、

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馬主であった海運業を営む宮崎氏の急遽作った牧場へ移動させる際
お腹の仔を流産し、後は不受胎を繰り返したのでした。

繁殖をひとまず休ませ自分の別荘で繋養させていた宮崎氏でしたが

戦後の混乱から事業が不信に陥り、子出しの悪いヒサトモを
繋養し続ける事が出来ず、

こちらも戦後の馬不足で農耕馬がレースに参戦しているような
地方競馬から話があったとき、

彼女を地方で走らせる決心をするのです。

ヒサトモ16歳(人間で言えば50歳くらい)の時のことでした。

地方で復帰したヒサトモは2週間あまりの間に5戦を戦い2勝をあげました。

しかし酷使がたたったのか、浦和競馬場に移動し次走の調教を済ませ
馬房に戻る途中、突然崩れるように倒れ事切れてしまったのです。

戦後のドサクサの中でその死の詳細は闇のなかに消えたままとなって
しまいました。

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