トウメイ 炎の名牝 その4
ここでトウメイの印象を綴った日刊競馬の
記者の方の記事を紹介します。
(日刊競馬 梅沢 直氏 文引用)
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当時、トウメイは保田隆芳厩舎預かりで、
保田師が事実上管理していたのである。
私のうまや通いのなかで、最も記憶に残っているのは、
トウメイの目である。
夕方、誰もいない薄暗いうまやを覗き込んだら、
トウメイと私の視線が合った。
トウメイは微動だにせず私を睨み付けている。
こちらも睨み返したのである。
いわゆるどちらからともなく
“ガン”を飛ばし合ったのだ。
彼女の目は己の運命を呪うかのように
反抗的で復讐心に燃えたすさまじいものだった。
先に視線をそらしたのは私だった。
背筋に悪寒が走るような気分でうまやを
後にしたものだ。
今でも、あのときのトウメイの目を
忘れることはできない。
馬の目ではない、強い意志と恨みを込めた怨念。
あれは断じて馬の目でなんかあるものか。
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トウメイは虐げられた自らをその強靭な精神力と
強い意思で振るい立たせ生きてきた証のような
エピソードである。
1971年天皇賞(秋)と有馬記念を制し
史上初牝馬の啓衆社賞(現JRA)年度代表馬に選ばれ
競争馬としての頂点を極めたトウメイは
馬インフルエンザの渦中静かに引退していきます。
31戦(16・10・2・3)生涯一度も
5着以下はなく、生涯獲得賞金は当時の
中央競馬牝馬の歴代一位でした。
母になったトウメイは14頭の仔馬を産みましたが、
なかでも二番仔のテンメイは母と全く同じスタッフ、
同じ馬番そして勝ち方までそっくりそのまま
第78代の天皇賞馬となり、史上初めて
母子天皇賞制覇を成し遂げたのです。
トウメイは母としても立派にその使命をはたしたのです。
馬主であった近藤克夫氏は常ずね家族に
競争馬を持たないよう遺言しておりましたが
トウメイだけは死ぬまで大事に面倒を見るよう
伝えておりました。
その言葉通り近藤氏が亡くなって全ての繁殖牝馬が
売りにだされてもトウメイだけは31歳の天寿を
全うするまで近藤氏の牧場で余生を過ごすことができたのです。
ネズミ馬と蔑まれ、人間嫌いで世話係りにさえ
懐かなかった彼女がたった一人不屈の精神力で
なしとげた一流への道だったのです。
トウメイの死とともに近藤氏の牧場はなくなった
そうですが、トウメイの墓参りに訪れるファン
のため牧場の看板は掲げられ続けたそうである。