白い稲妻 タマモクロスの物語 5
藤森特別を勝ちそのままの勢いで鳴尾記念(GⅡ)も快勝したタマモクロスは
まるで何かの呪縛から解き放たれたかのように快進撃を始めます。
レースを使うと飼食いが落ちるため無理をせず使われてきたのが馬の成長に
良かったことと何よりも逞しい精神力が備わってきたのです。
レースで見せる直線一気の破壊力は他の馬を圧倒し、もはやかつての
非弱いイメージはどこにもありませんでした。
その年の有馬記念は疲れを取るため自重したタマモクロスですが
馬主である三野氏の要望で1988年 年明け早々、三野氏の地元、京都競馬場で
行われる「金杯(GⅢ)」に出走することになったタマモクロスはこのレースでも、
誰もが届かないと諦めかけたその位置から驚愕の末脚を繰り出し見事勝利したのです。
その後も阪神大賞典(GⅡ)の重賞レースを一着同着という接戦ながら、
もちまえの勝負根性で粘り抜き、さらに古馬の日本一を決める
クラッシックレース天皇賞春(GⅠ 距離3200メートル)でも
GⅠ二勝のステイヤー血統メジロデュレンなどが顔を揃える中
父シービークロスが叶わなかったGⅠ制覇をGⅠ初挑戦でありながら
見事成し遂げたのです。
タマモクロスは父を超えるどころか名実ともに超一流馬として認められる存在と
なったのです。
周囲の見る目が変わったのはタマモクロスにだけではありませんでした。
三流種牡馬のレッテルを貼られていた父シービークロスも初年度産駒の
タマモクロスやシノクロス(1987年JRA賞最優秀三歳牝馬)の活躍で
当初10万円であった種付料が200万円に跳ね上がったのです。
話は前に戻りますが天皇賞春が行われた昭和63年4月29日は昭和の元号が残る
最後の年の天皇誕生日でありました。
タマモクロスの馬主である三野氏は昭和天皇と同じ年の生まれで、
彼は昭和天皇をこよなく尊敬し敬意を払う人物であったそうであります。
そんな彼の馬主歴50年にして最初のクラッシック制覇がタマモクロスによる
天皇賞春制覇だったわけであります
その後も白い稲妻タマモクロスは勝ち続け宝塚記念(GⅠ)では、前年の
天皇賞秋の覇者ニッポーテイオーを
更に第98回天皇賞秋では地方競馬の笠松から中央に移籍し、後に怪物と称され
絶大な人気を誇ったオグリキャップをも破って
ついにその年の天皇賞春秋連覇の偉業を達成し、
昭和最後の天皇賞馬という華を添えたのです。
天皇賞秋の次のレース ジャパンカップでは外国馬ペイザバトラーに破れ
連勝記録は8で途切れましたが、
日本馬では最先着の二着でありました。
暮れの有馬記念で再びオグリキャップと対戦し芦毛対決として大いに
盛り上がる中、惜しくもオグリキャップの二着に破れ、このレースを最後に
引退となりました。
まだ底をみせたわけではなかったのですが高齢の三野氏が
「タマモクロスの仔が走る姿を見たい」という希望もあって
あえて引退に踏み切り、種牡馬入りが決まったようであります。
こうして有馬記念を最後に引退したタマモクロスは同年のJRA賞において
年度代表馬・最優秀五歳以上牡馬・最優秀父内国産馬のタイトルを獲得したのでした。