白い稲妻 タマモクロスの物語 3

 

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こうして三野氏に買い取られた[「白い稲妻」シービークロスの血を引く仔馬は
タマモクロスと名付けられました。

もっとも当の三野氏もタマモクロスの事を高く評価した訳ではなく、むしろ線の
細い馬で、「きゅうりに割り箸を指したようだ」と評しあまり期待していなかった
ようであります。

しかしそれでも生産者である錦野氏の期待は薄れることは無く、牧場に
押しかける債権者たちに「この馬が走れるようになったら必ず返すから」
と説き伏せ、渋々ながらも返済を待って貰っていたのです。

そんな牧場の窮状も知らずタマモクロスは競争年齢を迎えるころになりました。

しかし食の細い体質と繊細な神経をもったタマモクロスはなかなか
デビューすることが出来ませんでした。

1987年3月、ようやく遅いデビューを迎えたタマモクロスに勝利の女神は
微笑みませんでした

ー7着ー新馬戦の結果は惨憺たる有様でした。

次のレースも4着で3戦目の未勝利戦で初勝利を挙げたものの、その後も
凡走を繰り返したのでした。

その頃、錦野氏の夢につきあっていた債権者たちもいよいよ愛想を尽かし
再び牧場に押しかけるようになっていましたし

金融機関も錦野牧場を見放したのです。

遂に錦野氏は牧場を手放すことになってしまいました。

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抵当に入った牧場は解体され土地・建物・繁殖牝馬などすべて売り飛ばされ、
そのお金は債権者に分配されたのです。

それでもまだ錦野牧場の悲劇は終わることはありませんでした。

人手に渡った牧場で従業員として働いていた彼の元に質の悪い債権者が
押しかけるようになったのです。

錦野氏は人知れず新冠の地から姿を消し家族も離散に追い込まれてしまったのです。

その後の錦野氏の消息は詳しくはわかりませんが、流れ着いた東京で建設作業員
として働いていたということであります。

錦野牧場の解体にあたって売りに出された繁殖牝馬の中には当然の
ことながらタマモクロスの母馬であるグリーンシャトーも含まれていました。

錦野氏が気に入って頼み込んで手に入れたこの牝馬は、現役時代重賞勝ちは
ないものの中央で6勝をあげた馬でした。

繁殖に入ってからも初仔のシャトーダンサーは地方12勝中央でも
3勝をあげていました。

気の荒い繊細な馬で錦野氏以外に心を許すことは無く、慣れた錦野牧場の
環境のなかで静かに暮らしていたグリーンシャトー。

けれどもこの騒ぎで一気に環境が変わった彼女は、買い取られていった
牧場でタマモクロスの三歳下の牡馬を出産してまもなく
腸捻転(ストレスによって起こりやすい病気といわれている)を
起こし死亡してしまったのです。

風の噂でこの話を聞いた錦野氏は今まで牧場を助けてくれた錦野牧場の
かまど馬であるグリーンシャトーを自分の責任で死なせてしまった後悔に
声を上げて泣いたという話であります。

しかし牧場もグリーンシャトーも、もう二度と彼の元へ帰ってはこないので
ありました。

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